法話集

平成22年 住職年頭挨拶

更新:2010.1.6

 平素は当寺護持にご協力下さいまして、誠にありがとうございます。年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。
 昨年度は、経済状況が厳しさを増し、ここ大畑町も景気の悪化、人口のさらなる減少に見舞われました。それに伴い、地域の活力の低下が続いております。
 しかしながら、人通りや交通量が少なくなった当町において、街が活気を見せる時期があります。それが、お盆、大畑祭り、お彼岸、そしてこの年末年始です。当寺におきましては、年々、お盆やお彼岸に墓地や、位牌堂にお参りに来られる方が増えているような気がいたします。その中には、当町を離れ、遠くは東京や仙台など、大都市で暮らす方々も多く見られます。
 その理由を考えるに、「経済的豊かさ」から「心の豊かさ」へと社会の価値観が変化する中、「自らのルーツ」「心の拠り所」を「ご先祖さま」や「神仏」に求める気持ちが、檀信徒の皆さん、地域の皆さん、そして当町出身者の皆さんの中で強まっているからであるように思えるのです。
 当寺には、江戸時代初期に開創されて以来、この町に関する多くの記録・人々の記憶が残されています。市町村合併や、人口流出により、旧大畑町民の帰属意識が薄れざるを得ない中、地域の人々と共に歩んできた当寺の役割は一層重くなっていると感じております。
 今後、皆さまの菩提寺として、葬儀・仏事をこれまで同様にしっかりとお勤めすると共に、多様化する、お墓や仏事に対するニーズに、出来得る限り応えていかなくてはならないと考えております。と、同時に、「地域の集会所」「地域の文化センター」としてのお寺の役割をより果たせるよう、出来ることから実行して参る所存です。
 皆さま方におかれましては、昨年度開設したホームページや、携帯サイトなどを通して、ご意見・ご要望を積極的にお寄せいただけましたら幸いです。
 本年も、なお一層のご協力・ご支援を賜りますよう、この場を借りてお願い申し上げます。

住職法話

最終更新:2009.9.29

第2回「お彼岸にあたって 仏道に生きる」

2009.9.23「秋彼岸会法要」にて

IMG_0731.JPG   法要には約120名が参加 本年の「秋彼岸会法要」も、大勢の方々にお参りいただき、先程無事、終了いたしました。
 今年のお彼岸はシルバーウィークとなりましたが、この何日間が街の車を見ていますと、県外ナンバーが大変多いことに気づきました。天候に恵まれ、大間や薬研、仏ヶ浦などに観光に県外から来られたのでしょうか。当寺にもまた、朝から沢山の方々が訪れ、お墓参りをされていました。行楽のためのシルバーウィークにおいて、一日でもご先祖さまをご供養するという方々が多いのが、暗い世相の中の一抹の救いのように思えます。
 さて、最近テレビで、全国で100歳を超えるお年寄りの方が4万人を超えたというニュースがありました。NHKでも「百歳万歳」という番組がありまして、元気なお年寄りが登場いたします。昭和61年、今から23年前に当町赤川に「延寿園」(特別養護老人ホーム)が開設されまして、その「延寿園」の会報誌『くろもり』に随筆を依頼されました。その際に寄稿した「敬老に思う」という文章を少しご紹介いたします。
 「アメリカの社会学者が、お年寄りには3つの役割があると言っております。一つ目は、職業上の役割や、家での親としての役割など、だんだん小さくなる役割。二つ目は投票の義務とか社会的関心とか、変わることのない役割。三つ目は、民芸品づくりの伝承、人生経験を生かした各種相談活動など、新しく生まれてくる役割です。そしてこの第3の役割こそが社会が必要としている役割であると述べております。お年寄りがそれぞれの立場で、何でもいいから何か役割を果たせるようだと素晴らしいことと思います。しかし、なかなか役割を全うすることは困難になっていくのです。人間誰しも老いていくことはつらいことですし、苦しいことです。しかし、その老人が、尊敬に値する生き方をしている人ならばいざ知らず、文字通り、“ただ敬うように言われても”なかなか出来ないというのも事実です。マスコミ等でもお年寄りをいたわりましょうと呼び掛けておりますが、呼び掛けが必要なほどお年寄りを大切にしていない現実があります。大切にするにしても、いずれ自分も年をとり、弱ったときに大事にしてもらいたいから、大事にしておれば決して損にはならないとか、何か取引のようで寂しいかぎりです。取引ではなくとも大事にするにはどうしたら良いのでしょうか。それには何がわかればよいのでしょうか。今、家庭では老人が小さくなり、寂しい思いをしていると聞きます。(中略)例えばここに時計があります。時計の価値は時を正確に刻むことです。しかし、いくら正確でも、素晴らしい時計でも、それを見る相手があって初めて価値が出てくるのです。これを相対的価値といいます。物の価値とはそういうものです。ここに、“役に立つかどうか”という尺度が出てくるのです。この物差しで人の全てを評価しようとするところに問題が起きるのです。しかし、この物差しは使い方によっては大変恐ろしいものになります。例えば、この物差しを赤ん坊にあてはめてみると、間違いなく、役に立たないという答えが出ます。役に立たないから、捨ててもいいし、殺しても構わないという考え方になり、幼児殺しとなるのです。次に老人に当てはめてみますと、やはり働き盛りの人たちと比べて役に立たないという結果が出ますし、昔は役に立ったけど、今は役に立たないという答えがでます。役に立つかどうかという尺度のみで人間の全てを測ろうとするところに、粗大ごみとか、廃物とかという言葉が生まれてくるのです。私たちは今大切なことを忘れています。役に立つかどうかという物差しで測ることのできない、“測ってはならぬものがある”ということです。それが“いのち”というものです。“いのち”は役に立つかどうかという相対的な価値ではないのです。それはそこに存在するだけで侵すことのできない尊いものなのです。かけがえのない存在です。全ての人が基本的にそうなのです。何もできなくとも、そこに寝たきりでも、まだ息をしているだけでも、侵すことのできない尊い存在なのです。ここに目を据えて人を見る時、自ずから、“どうあるべきか”という答えが出てくると思うのです。」
 少し長い引用でしたが、如何でしょうか?この23年前の状況というのは全然変わっておりませんね。むしろ悪くなっているのではないでしょうか?また、NHK教育テレビを見ますと、介護問題に関する番組が多いのですが、もう、“個人の力だけでは介護は無理だ”という現実があります。人間一人が最晩年をどうやって過ごすか、尊厳のある生きざまをどう送ってもらうか、ということを考えると、やはり、技術的なものはもちろんのこと、心のこもった介護が出来るプロをどんどん養成していかなければ、我々の人生は成り立っていかないのではないでしょうか?
 そして私たち人間はどうしても、かけがえのない親や兄弟、子供がいても、個人主義、自分中心主義になるものですし、なかなかその生き方から脱して生きることは難しいものです。しかしながら、この生き方を転換して生きるためのきっかけが、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を行じる、仏道修行週間=彼岸なのです。この彼岸をきっかけに、自己中心的な生き方を転換して生きるべきなのです。
 私ども曹洞宗には、自分たちが生まれてから死ぬまでの人生の、ひとコマひとコマ全てを、修行として生きなければいけないという考え方があります。トイレも、風呂に入るのも、ご飯を食べるのも、お茶を一杯のむのも、華をいけるのも、言葉をかけるのも、寝るのも、病院に入院して横臥しているのも全て修行なのです。行住坐臥全てが修行と考えるのです。先程、華をいけるのも、お茶を一杯飲むのも修行と申し上げましたが、華道、茶道と道がつくのは、それが修行であるという考え方が背景にあるからです。また、私ども曹洞宗の伽藍を見ますと、三重の搭や五重の搭はありません。修行に必要な建物のみで、かつ、質素な建築物が多い。それは、先程申し上げた、「生活全てが修行」という考えがあるからです。
 私たちには様々な感情、喜怒哀楽があります。その中に“道”を見いだすべきなのです。人生においては、苦しいときも、悲しいときもあります。そんな時、「今のこの状況もまた道である、仏さまが修行をさしてくれている」と思えば、ふっと気が楽になるのではないでしょうか。
 不思議なことに、人間には誰しも、生き方を修行に転換したいという気持ちがあります。何故そう転換することができるのでしょうか?それは私たちには誰しも、仏の心、仏心(ぶっしん)があるからです。それが、転換していこうということにつながっていく。仏さまの心がそうさせるのです。道を求めさせるのです。
 私たちがよくお読みする、『修証義』の“修”は修行の修、“証”は仏の心に適うという意味です。「仏の心に適うことを行ずる」ことの大切を説いているのが『修証義』、仏の心に適うことをするのが修行です。そして、私たちはまた、各々が各々の立場で日常生活の中で、実は修行をしているということに誇りを持たなければいけないのです。
 「今日彼岸、菩提の種をまく日かな」。種まきをしなければ実はなりません、食べることもできません。この“菩提の種まき”を彼岸に関わらず、いつでも行じていっていただきたいと思います。

第1回「お盆にあたって いのちのリレー」

2009.8.16 「盂蘭盆会 施食会法要」にて

IMG_0133.JPG   お盆の第一位牌堂の様子 お盆といいますと、小さい頃、よくお仏壇の金物みがきをさせられたことを思い出します。また、私の実家は大変忙しかったために、大人が夜、お墓にお灯明を点けに行く暇がありませんでした。そのため、「早く、あかしをつけてきなさい」と言われ、小学校の頃、暗い夜道を行き、お墓にお灯明を点けに行ったことを、今でも鮮明に覚えております。そうした、「わけのわからないまま」に、子供が大人や親からそうしたしつけをされることは、昔はよくあったものです。今考えてみますと、年端もいかない子供であった私は、「顔を見たことのないご先祖さまのお灯明を点けにいく」という行為に、何かしらの意味を感じていたように思います。はっきりとはわかっていなかったと思いますが、「ご先祖さまと自分はつながっている」「ご先祖さまがいたから、自分は今こうして生きている」と感じていたのです。

 本日で今年もお盆が終わりを迎えるわけですが、毎年お盆になりますと、私は「お盆という行事があって、日本という国に生まれてよかった」と実感いたします。お盆になりますと、沢山の方たちが、実家に帰省し、お墓参りをしたり、懐かしい顔と再会したりいたします。中には、お盆の休みを利用して、海外に旅行をされる方もいらっしゃいます。私は、そのニュースを見ながら、「この人たちはご先祖さまがいないのかな」あるいは「先にお墓参りをしたのかな」と疑問を感じたりもいたします。中には、お仕事や様々な事情で帰省できない方もおられるでしょう。とはいえ、ほとんどの人たちが、親や親戚に、自分や孫の元気な顔を見せよう、ご先祖さまのお墓参りをしよう、と帰省するという行事が延々と今まで続いているわけです。「家族制度は崩壊している」と言われて久しいですが、まだまだこうした形で「家族」というものは残っておりますし、家族という「縁」を大切にするという習慣が、お盆という形で続いているのはありがたいことです。

 13日には、ご先祖さまたちの「みたま」をお迎えし、本日16日には、懐かしい我が家に帰ってきたご先祖さまを、「とうろう流し」という形でお送りいたします。このお盆の行事には、素朴な中に、ほのぼのと温かく、陰りのない清らかな心が感じられます。お盆になると、私たち人間の心が純粋な心を取り戻す、という感じがしてなりません。この、私たちがご先祖さまを思う、陰りのない清らかな心は今に始まったことではありません。このお盆という行事は、ご先祖さまから、私たちへ、私たちから、子や孫へ、いつまでも続いていく、いわば「いのちの結び目」のようなものです。「いのちの結び目」を、今我々はお盆という行事で果たしているのです。私たちはお盆のことを、魂に御をつけて、「御魂(みたま)まつり」とも申します。「御魂」というのはご先祖さまの「いのち」を意味します。私たちは「御魂まつり」でもあるお盆の行事を通して、「いのち」の根源について考えなければなりません。そもそも私たちの「いのち」は、私たちが自らで作りだしたものではありません。自分の力で自分の「いのち」を作った者は一人もいないのです。皆、両親から「いのち」をあずかり、受け継いてきました。この私にも両親があり、父にも両親があり、母にも両親があり、その両親にもまた両親があり…。と、上へ上へとさかのぼっていくと、10代くらい前、大体350年くらい前になります。その、10代前まで血のつながっている人が、皆、死なないで生きていたと仮定したら、およそ1万4千人にもなるそうです。さらに30代くらい前にさかのぼると、約1,000年も前になり、血のつながっている人の人数は約1億777万人にもなるとのことです。大雑把に考えると、日本中が親戚のようなものです。このように考えると、もう、「赤の他人」などという言葉は使えませんし、争うわけにはいきません。明治天皇の歌に、「四方の海 みなはらから(同胞)と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」というものがございます。世界の国々は皆、同胞であるはずなのに、どうして波風が立ち騒ぐのであろうかという意味です。

 今、私たちがこうして生きていることは、何百年、何千年と、「いのち」が受け継がれてきたことにほかなりません。いわば駅伝のようなものです。我々は、「いのち」のたすきリレーがつながってきたからこそ、ここに存在しているのです。いわば奇跡です。もしも、途中で途絶えていたら、この世界には存在し得ないのですから。また、何百年、何千年前のご先祖さまの血液が、私たちの体に脈々と流れている。そのことを考えれば、ご先祖さまの「恩徳」「いのち」に感謝しないではいられません。

 また、ご先祖さまの「恩徳」「いのち」に感謝することを通して、自らの生き方を反省する機会にしたいものです。「何千年も受け継がれてきたこのいのちを有効に生かさなければ、ご先祖さまに対して申し訳ない」そのような気持ちを持つべきなのです。私たちの「いのち」は、お互いに終わりのあるものです。その終わりは明日かもわかりませんし、10年、20年先かもしれません。終わりがあるからこそ、少しでもこの「いのち」を世の為、人の為に活かす。そのことをお誓いいたしましょう。そもそも、お盆の語源である、「ウランバナ」という言葉は、「逆さにかかる」(倒懸)を意味し、汚れて逆さまになった心を正しく立て直す機会です。お盆の大切な心がまえ、お盆の意義はそこにこそあるのです。本日のとうろう流しでお盆は終わりますが、皆さま方におかれましては、健康に十分留意され、ご先祖さまから受け継いだ「いのち」を大切にし、次の世代に「いのち」「いのちの大切さ」を伝えていただきたいと存じます。

ミニ法話

最終更新:2010.1.6

「一年の計は元旦にあり」

『大安寺報 第2号』より

 毎年お正月になると、この言葉をよく見聞きしませんか?この言葉の意味が、「物事を始めるには、計画を立てることが重要だ」であることは、皆さんはもうご存知かと思います。しかしながら、「毎年計画を立てはするんだけど、実現できたためしがないなぁ」「毎年同じことを計画している気がする」という方も多いのではないでしょうか。
 実は、この「一年の計は元旦にあり」という言葉。出典である『月令広義』(中国・明の官僚が著した、中国の伝統行事やしきたりを解説したもの)においては、三つの言葉とセットで説かれているのです。

  一日の計は朝にあり
  一年の計は元旦にあり
  一生の計は勤めにあり
  一家の計は身を修めるにあり

 私たちは、新年の始まりにあたり、「ああしよう」「これを目指そう」とあれこれ計画を立てます。しかし、いつしかその初心を忘れ、年末になってから後悔しがちです。一体それは何故でしょう?
 一つ目の理由は、何より「計画」をするだけで実行しないからです。
 二つ目の理由は、一年という長い期間での計画だけだと、ともすると忘れてしまったり、目標が高ければ高いほど、意欲を失ってしまうからです。
 三つ目の理由は、この世の中は必ずしも思い通りにならず、途中で投げ出してしまうからです。
 この三つの理由を克服するために、「一日の計は朝にあり」の言葉通り、朝起きたらその日の計画を立てることをお勧めします。そして、朝その日の計画を立てたら、出来ることからでいいから、少しでも実行に移しましょう。もし、思い通りに行かなかったら、翌朝またその計画を見直せば良いのです。
 一年は一日の積み重ね、一生は一年の積み重ねです。先の人生を憂える前に、まずは、一日一日を大切に、日々過ごすことをお勧めいたします。

「お盆にあたって」

『大安寺報 創刊号』より

 今年もまた、月遅れのお盆の時期となりました。お盆は正しくは「盂蘭盆会」といい、インドの古代語の「ウランバナ」に由来するといわれております。そしてそのいわれを『仏説盂蘭盆経』は次にように伝えています。

 昔、お釈迦さまのお弟子であり、神通第一と言われていた目連尊者が、亡くなった自分の母親を神通力で探したところ、餓鬼道に落ちていたことを知った。尊者は母親に水や食べ物を差し出したが、それらはことごとく炎と化して、母親は飢える一方だった。困った尊者がお釈迦さまに相談したところ、「安居(修行期間)が終わったら、全てのお坊さんに食べ物を施せば、その一部が母親の口にも入るだろう。」とお答えになった。尊者がお釈迦さまの言う通りに実行したところ、母親の口に入り、母親は餓鬼道から抜け出ることができたという。

 当寺では、毎年お盆の最終日である十六日に、「施食会」という法要をお勤めしております。この法要は、目連尊者のこの逸話を背景としたものであり、後生の安楽を願う相手を直接ご供養するのではなく、一切の生きとし生ける存在、亡くなった方、親しい人、恨みに思う人に対して分け隔てなく「食」を「布施」する法要です。そして、その功徳を、皆さんが日頃心に思われている方々に振り向けるご供養です。
 私たちはとかく、「あの人は嫌いだから良くしてあげるのはやめよう」などと分け隔てし、また、「これだけのことをしたのだから、見返りがあるはずだ」と、「布施」ならぬ「心の取引」をしがちです。尊者の母親は、生前は尊者に対しては優しい人であったものの、他人の子供に対しては厳しく接するという、「分け隔て」をする人であったため、餓鬼道に落ちてしまったと言われています。 
 私たちは、そのことを教訓とし、「分け隔て」せず、また、見返りを求めずに「布施」することで、「心の餓鬼道」に落ちぬよう、そして皆さまが心に思われる方々が後生安楽であるようお祈りしたいものです。